入間市博物館ALITお茶の博物館 > 狭山茶の歴史


鎌倉・南北朝・室町時代〜河越茶・慈光茶・赤岩茶〜

狭山茶の主産地である埼玉県西部では、いつから茶の栽培・製茶が始まったのでしょうか。これについては諸説あり、いずれも確かな史料は見つかっていません。しかし、南北朝時代の書物『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』に、「天下に指して言う所」の茶産地の一つとして「武蔵河越(むさしのかわごえ)」が登場します。また、戦国時代に成立した『旅宿問答(りょしゅくもんどう)』には、「我が朝の名茶」の一つとして「武蔵ノ茲光茶」が登場します。これらの茶産地には、無量寿寺(川越市=現在の中院・喜多院)や慈光寺(ときがわ町)など、中世に隆盛を極めた寺院があり、これらの有力寺院が喫茶や製茶の文化をこの地域に導入した可能性が考えられます。また県内では、南北朝時代に金沢称名寺(神奈川県横浜市)の領地だった下総国下河辺荘赤岩郷(現在の埼玉県松伏町周辺)で、茶が年貢として称名寺に納められていたことが古文書に記されています。この赤岩郷の茶が、史料で確認できる埼玉県内最古の茶生産に関する記録として注目されています。しかし、その後の戦乱によって有力寺院が衰退すると、これらの茶産地も荒廃したと考えられ、詳しいことは伝えられていません。


江戸時代〜茶づくりの復興〜

江戸時代後期(1800年代初め)、現在の入間市近在の吉川温恭(よしかわよしずみ)、村野盛政(むらのもりまさ)、指田半右衛門(さしだはんえもん)の三人は、試行錯誤を重ねた末、この地域での茶の生産を復興しました。彼らはそれぞれに当時最新の製茶法であった宇治の蒸し製煎茶の製法を習得し、文政2年(1819)には、この茶を商品として大消費地江戸へと出荷するようになったのです。なかには、当時の最高茶である宇治茶と同じ評価を受けるものもありました。


重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)

重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)
天保3年(1832) 入間市出雲祝神社
宇治の蒸し製煎茶法による新たな茶づくりを確立した狭山茶業復興の記念に建碑されました。碑文には、日本での茶の歴史、武蔵河越茶から狭山茶に至る経緯、復興に尽力した人物、茶の効能、茶づくりに対する心構えなどがまとめられています。



近代以降〜「狭山茶」ブランドの誕生と発展〜

幕末に横浜が開港すると、お茶は生糸に次ぐ重要な輸出品となり、この地域の茶も八王子を経て横浜に運ばれ、北米などに輸出されるようになりました。明治8年には現在の入間市近在の有力茶業者により「狭山会社」が設立され、アメリカへの茶の直輸出業務や、製茶農業の育成を行いました。「狭山茶」の名称はこの頃から定着してきたようです。その後、茶業組合も組織され、村々には製茶伝習所も開設されました。
その後、入間地方では大正時代後期に機械製茶が始まり、昭和3年埼玉県の茶業研究所が設置されて、近代茶業へと転換していきました。その後、アジア太平洋戦争により一時荒廃していた狭山茶業も、戦後間もなく復興を遂げ、昭和30〜40年代以降には、従来の畦畔茶(けいはんちゃ/畑などのまわりに植えられる茶の垣根)から、本茶園へと茶園の姿も大きく変わって来ました。現在では埼玉県で生産される狭山茶のうち入間市がその半量以上を占めています。
補足)八王子を経由して輸出されたため、アメリカでは、狭山茶のことを「八王子茶」とも呼びました。


狭山会社の茶袋ラベル

狭山会社の茶袋ラベル
狭山会社がアメリカで販売した茶のラベル。
入間市博物館蔵



畦畔茶(けいはんちゃ)

畦畔茶(けいはんちゃ)
武蔵野台地の表土(赤土)は軽く、強風によって容易に吹き飛ばされてしまいます。畑や家のまわりにチャの木を植えることで、風害や、土の流出を防ぐと同時に、春先の貴重な現金収入源となりました。



本茶園(ほんちゃえん)

本茶園(ほんちゃえん)
武蔵野台地に広がる「本茶園」。これだけの面積の茶園が広がる産地としては国内の北限。機械での摘み取りに対応して、かまぼこ形に丸く刈りそろえられた畝(うね)が整然と並んでいます。



  1965年 1975年 1985年 1995年 2005年
茶栽培面積
(ha)
埼玉県 2420 3380 3170 1750 1170
入間市 563 961 887 660 500
荒茶生産量
(t)
埼玉県 1915 2949 1300 1400 1040
入間市 783 1263 438 838 590
狭山茶の生産推移