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入間市博物館 アリット

日本への伝来

更新日:2020年10月23日

中国から日本へ―3度の伝来・3種類の茶-

唐から日本へ―遣唐使の伝えた茶-

お茶のふるさと、中国から日本へと喫茶の風習が初めて伝えられたのは8世紀から9世紀のことと考えられています。

遣唐使として当時の中国(唐)へと渡った留学僧が、寺院で飲まれていた茶を日本へと伝えたもので、この時の茶は、沸騰した湯に茶葉または茶の粉を入れて煮出す「煎じ茶」でした。

この「煮出す」お茶の飲み方を「煎茶法(せんちゃほう)」といいます(注:現在の「煎茶」とは意味が異なるので注意)。

『日本後紀』の弘仁6年(815)の条には、嵯峨天皇が近江国(現在の滋賀県)に行幸した際に、僧永忠(えいちゅう)から茶を献じられたことが記されており、これが喫茶の記録としては日本最古のものとされています。

さらに嵯峨天皇は、畿内や近江・丹波・播磨などに茶を植えさせ、毎年献上するよう命じたとも記されています。

平安時代の茶は、宮廷で行われる法会で僧たちにふるまわれたり、大寺院での儀礼でお供えなどに用いられたりしていたことが、史料に残されています。

煮出すお茶「煎茶法」

煮出すお茶「煎茶法」

『茶経』

『茶経』

陸羽著(再版)入間市博物館蔵
(原書)中国唐時代(760年頃)

唐の時代に世界最初の茶に関する百科全書として詩人の陸羽(りくう)が著した書物。
茶の起源・歴史・製茶法・喫茶法・製茶道具・喫茶道具などが体系的に記されています。

宋から日本へ―抹茶の広まり―

二度目の伝来は、鎌倉時代。

中国(宋)で臨済禅を学んで帰国した栄西(えいさい/ようさい)が、当時の宋で飲まれていた「点茶法(てんちゃほう)」によるお茶の飲み方を日本へ伝えたとされています。

「点茶法」とは、粉末の茶を入れた容器に「湯を注ぐ」方法で、現在の「抹茶」の飲み方に通じる方法です。

栄西はまた、日本で最初の茶書とされる『喫茶養生記』(きっさようじょうき)を著し、茶は万病の仙薬だと説き、宋で見聞してきた茶の製法や喫茶法を紹介しました。

栄西は、鎌倉幕府第三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)に、二日酔(ふつかよ)いの薬として茶を献じたことが『吾妻鏡』に記されており、やがて新興の武士層にも茶が広まっていきます。

寺院では、平安時代以降、仏教儀礼で「煎じ茶」が使用され続け、さらに鎌倉時代に新たに広まった禅宗寺院では「茶礼」という喫茶儀礼が中国から取り入れられ、日常的に茶を消費するようになります。

こうして、茶は寺院と深く結びつき、各地の寺院で「境内茶園」が営まれるようになり、茶の産地が全国各地に拡大していきます。

茶産地が各地に広がると、茶の産地や種類を飲み当てる遊びの「闘茶」が武士や貴族たちの間で大流行します。

室町時代になると、庶民のあいだにも茶は普及していきました。

ひとびとの信仰の場である寺社の門前には、一服一銭の「小屋掛けの茶屋」が立ち、茶売り人が参詣に来た人を相手に茶を売っていました。

また行楽や祭礼などで人が集まるところには、茶道具を荷って売り歩く光景が見られるようになりました。

点てるお茶「点茶法」

点てるお茶「点茶法」

『喫茶養生記』明庵栄西著(再治本・再版)

『喫茶養生記』  明庵栄西著(再治本・再版)

入間市博物館蔵(原書)鎌倉時代・建保2年(1214)
「茶は養生の仙薬なり」の書き出しで始まり、茶を万能薬として推奨する内容となっています。

京都栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)にある現在の茶園

京都栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)の茶園

茶産地の広がりに伴って、この栂尾の茶を「本茶(ほんちゃ)」、その他の茶を「非茶(ひちゃ)」と呼び、これを飲当てる遊び「闘茶」(とうちゃ)が流行するようになりました。

小屋掛けの茶屋

小屋掛けの茶屋

寺社などの参道で、参拝者に向けて茶を売っていた小屋掛けの茶店。桃山時代の絵画(珍皇寺参詣曼荼羅)を元に再現したもの。
珍皇寺(ちんのうじ)は京都市内東山の建仁寺の近く。

明から日本へ―煎茶の伝来と蒸し製煎茶法の発明-

三度目の伝来は、江戸時代の初めごろと考えられています。

この頃に、明時代の中国で飲まれていた「淹(い)れるお茶」(「淹茶法(えんちゃほう)」)の飲み方が日本へ伝わりました。

「淹茶法」とは、急須などに茶葉を入れて湯を注ぎ、染み出たエキスだけを飲む方法です。

明時代の中国では、摘んだ茶の葉を鉄の釜で炒って作る「釜炒り煎茶」が飲まれていました。

この釜炒り煎茶を日本に伝えた人物としてよく知られているのが、承応3年(1654)に渡来し、日本に禅宗の一派黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた中国僧、隠元(いんげん)です。

隠元は、当時の中国の文物を数多く日本に伝えたことで知られていますが、この中に、中国の釜炒り製煎茶や、それを飲むための道具「茶缶」(現在でいう急須)も含まれていたのです。

江戸時代中期には、黄檗僧月海元昭(げっかいげんしょう)が禅の精神を実践するため「売茶翁」となって京都市中で煎茶の茶売りを始めました。

売茶翁の活動は、当時の知識人たちの共感を呼び、上田秋成(うえだあきなり)や頼山陽(らいさんよう)、田能村竹田(たのむらちくでん)等、江戸時代を代表する文人達の間で、煎茶の文化が花開いていきました。

この頃、売茶翁の茶売りの活動と並行するように、「煎茶」製法改良の試みが成功しました。元文3年(1738)、京都宇治湯屋谷(京都府宇治田原町)の篤農家、永谷宗円(ながたにそうえん)による「蒸し製煎茶」法の発明です。

茶葉の加熱方法を、「釜炒り」ではなく、抹茶の製法と同じ「蒸す」方法で行い、その後、揉みながら乾燥させるという方法です。

永谷が開発したこの製法は「宇治製法」と呼ばれ、江戸の茶商・山本嘉兵衛(山本山)が「色つやが鮮やかな緑で、香りがとても良い」と絶賛します。

そこから、この蒸し製煎茶が江戸で高値で取引されるようになり、1750年代頃から蒸し製煎茶はますます広まっていったのです。

現在、「緑茶」と言えば、一般にこの「蒸し製煎茶」のことを指すほどまでに、この「蒸し製煎茶」は私たちに最も普通で馴染深いお茶となりました。

淹れるお茶「淹茶法」

淹れるお茶「淹茶法」

黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)

黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)

隠元が開いた日本黄檗宗の総本山。
現在、日本の煎茶道の中心地としての役割も果たしています。

売茶翁高遊外(ばいさおうこうゆうがい)

売茶翁高遊外(ばいさおうこうゆうがい)

享和20年(1735)、60歳をすぎてから京都で煎茶を売る生活を始めました。
売茶翁の活動は当時の京都・大坂の知識人・芸術家達に大きな影響を与えました。

永谷宗円(ながたにそうえん)の生家(京都府宇治田原町湯屋谷)

の画像

この家の土間には、製茶に使用された焙炉場(ほいろば)が現存しています。
日本独自の「蒸し製煎茶」誕生の地ともいえます。