メニューにジャンプコンテンツにジャンプ
入間市博物館 アリット

狭山茶の歴史

更新日:2020年12月24日

注:このページの内容は、「日本への伝来」とあわせてご覧ください。

鎌倉・南北朝・室町時代-河越茶と慈光茶-

埼玉県では、いつから茶の栽培・製茶が始まったのでしょうか。

埼玉県内で生産された茶で、中世にまでさかのぼることが史料で確認できる茶として、「河越茶(かわごえちゃ)」・「慈光茶(じこうちゃ)」・「赤岩茶(あかいわちゃ)」があります。このうち「赤岩茶」は、埼玉県東部の松伏町・吉川市周辺で生産された茶で、現在は埼玉県域に含まれますが、中世には下総国下河辺庄(しもうさのくにしもこうべのしょう)に属し、現在の茨城県西部で主に生産される「猿島茶(さしまちゃ)」にゆかりの茶です。

埼玉県西部で主に生産される「狭山茶」の起源とされる茶は、「河越茶」(川越市とその周辺)と「慈光茶」(ときがわ町)です。

いずれも、中世に大きな勢力をもった天台宗の大寺院があった場所です。天台宗では、平安時代より儀式のお供え物として茶が使用されていたので、本山である比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)から茶の供給を受けていた可能性があります。鎌倉時代に抹茶の飲み方(点茶法)が広まり、茶の消費量が増えると、本山からの供給だけでは足りなくなり、地方の寺院でも茶を自給するための栽培・製茶が始まったと考えられます。しかし、その後の戦乱によって有力寺院が衰退すると、これらの茶産地も荒廃したと考えられ、河越茶・慈光茶の銘柄は姿を消します。

【河越茶】

南北朝時代に、京都近辺で書かれた当時の教科書である『新撰遊覚往来(しんせんゆうがくおうらい)』や『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』に、武蔵国の銘茶として出てくる茶です。

川越市小仙波町にあった星野山無量寿寺(せいやさんむりょうじゅじ)は、中世に関東天台宗の学問所(談義所・檀林)として隆盛を極めた大寺院で、河越茶生産の拠点寺院と考えられています。現在、子院の中院と喜多院が現存しており、中院境内には「狭山茶発祥之地」の石碑が建てられています。

また、川越市上戸にある河越館跡からは、茶臼や茶入・天目茶碗など、中世の喫茶道具が多数出土しており、河越荘(かわごえのしょう)を支配していた地元の有力武士が茶を飲んでいたことがわかります。さらに、河越館の立地場所は、入間川の水運と、東山道武蔵路の陸運が交差する交通の要衝で、周辺地域で生産される茶の集散地(流通拠点)となっていたと考えられます。ここから出荷された茶が、集散地名を冠して「河越茶」と呼ばれたと考えられます。

中院境内の「狭山茶発祥之地」
中院境内の「狭山茶発祥之地」

【慈光茶】

室町時代の永正4年(1507年)に、関東で書かれた『旅宿問答(りょしゅくもんどう)』に、武蔵国の銘茶として出てくる茶です。

ときがわ町西平にある天台宗の大寺院、都幾山慈光寺(ときさんじこうじ)で生産された茶と考えられます。慈光寺は、標高463メートルの都幾山一帯に広がる広大な山岳寺院で、鎌倉時代には鎌倉幕府の祈願寺として隆盛を極め、「一山七十五坊」といわれる多くの僧坊が山内に立ち並んでいました。

鎌倉時代に慈光寺の住職を務めた栄朝(えいちょう/ようちょう)は、『喫茶養生記』の著者である栄西(えいさい/ようさい)の直弟子で、建久8年(1197)に慈光寺山内に天台密教と臨済禅の兼修道場として塔頭(たっちゅう)の拈華山霊山院(ねんげざんりょうぜんいん:現在は臨済宗の寺院として独立)を開いています。その後、承久3年(1221)に栄朝は上野国(こうずけのくに)世良田(せらだ)(現・群馬県太田市)に長楽寺(ちょうらくじ)を開きます。南北朝時代の史料には「世良田茶」の名が確認できます。ちなみに、栄朝の弟子の円爾(えんに:聖一国師)は、静岡茶の祖として知られています。

都幾山の地質や気候は、良質な茶を生産する自然条件に適合していて、現在でも境内茶園があり、また、山内の参道沿いや僧坊跡を取り囲む斜面には、野生化したチャの木が至る所に繁茂しています。

栄朝が慈光寺に奉納した「寛元の銅鐘」
栄朝が慈光寺に奉納した「寛元の銅鐘」(国指定重要文化財)

江戸時代-茶づくりの復興-

江戸時代後期(1800年代初め)、江戸では永谷宗円が考案した「蒸し製煎茶」が人気を博していました。

ちょうどその頃、狭山丘陵の北麓、二本木村西久保(現・入間市宮寺)に住む吉川温恭(よしかわよしずみ)と、その友人で隣の坊村(現・東京都瑞穂町)に住む村野盛政(むらのもりまさ)は、狭山丘陵で偶然見つけたチャの葉で茶を作ってみたところ、たいへん美味しい茶ができたといいます。

狭山丘陵周辺の武蔵野台地一帯は、水はけの良い関東ローム層から成るため、米作りが出来る土地が少なく、当時は毎日の食事にも事欠くような生活だったといいます。二人は江戸で「蒸し製煎茶」が高値で取引されていることを知っていたので、これを作って江戸で売れば、村の暮らしを良くすることができると考えました。吉川は、本格的な「蒸し製煎茶」の製造を目指して、京都や滋賀でその製法を自ら視察します。また、吉川は人を宇治に派遣して、現地で数年間、実習をさせていたとも伝えられています。

同じころ、加治丘陵の南麓(根通り)の今井村(現・東京都青梅市)に住む指田半右衛門(さしだはんうえもん)も、本格的な「蒸し製煎茶」の製造を目指して、宇治の茶農家で4年間下働きをしながら技術を習得しました。

吉川と村野は、文化13年(1816年)に自分達が作った茶を江戸の茶商山本山へ贈ります。山本山五代目の山本嘉兵衛徳潤(かへえとくじゅん)は、このお茶を絶賛し、販路拡大と品質向上に協力を約束します。山本山にとっても、大消費地江戸の近郊に、新たな蒸し製煎茶の産地を開拓したいという思いがあったと考えられます。

吉川と村野は、狭山丘陵北麓の村々に製茶技術を広めて量産体制を整え、ついに文政2年(1819年)、山本山をはじめとする江戸の茶問屋と、本格的な取引を始める売買契約を交わします。また、文政4年(1821年)には、根通りの指田半右衛門も江戸の茶問屋と取引を行なっています。こうして、狭山丘陵北麓と、加治丘陵南麓(根通り)で、ほぼ同時期に関東で初の「蒸し製煎茶」の産地が誕生しました。

茶の販売が軌道に乗った天保3年(1832年)、吉川と村野は、自分達が茶作りを始めた地である狭山丘陵の麓の出雲祝(いずもいわい)神社境内(入間市宮寺)に、茶作り復興の記念碑「重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)」を建てます。いにしえに武蔵国の銘茶といわれた「河越茶」が衰退した後、数百年間にわたって廃れていた武蔵国の茶作りを、ここ狭山丘陵の麓で復興したことを、高らかに謳った石碑です。

重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)

重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)

天保3年(1832年) 出雲祝神社(入間市宮寺)

碑文に「重ねて場を狭山の麓に闢(ひら)き、以て数百年の廃を興さんと欲す」と刻まれ、河越茶衰退の後、数百年間にわたって廃れていた茶作りを、狭山丘陵の麓で復興したことを謳っています。

近代以降-「狭山茶」ブランドの誕生と発展-

幕末に横浜が開港すると、お茶は生糸に次ぐ重要な輸出品となり、この地域の茶も八王子を経て横浜に運ばれ、北米などに輸出されるようになりました。

この地域で生産された茶は、八王子の商人を介して横浜の外国商館へと送られることが多かったため、集散地名を冠して「八王子茶」と呼ばれました。また、中間業者である八王子商人にマージンが入ることや、八王子に集められた段階で粗悪な茶と混ぜられ、手間暇かけて製茶しても安値で取引されるなど、地元の製茶業者にとって不利益が生じることとなりました。

そこで、明治8年(1875年)、現在の入間市近在の有力茶業者により「狭山会社」が設立され、中間業者を通さない直輸出業務や、製茶業者の保護育成を行いました。また、直輸出にあたって、これまで狭山丘陵の北麓では「狭山茶」、加治丘陵の南麓(根通り)では「根通り茶」などと、それぞれローカルな地域名称で呼ばれていたこの地域の茶名を、茶作り復興の地での呼び名である「狭山茶」の名称に統一しました。

その後、茶業組合も組織され、村々には製茶伝習所も開設されました。「狭山茶」の産地は、狭山丘陵・加治丘陵の麓の村々から、周辺の台地一帯へとその範囲が拡大していきました。

平沢村(現・埼玉県日高市)出身の高林謙三は、重労働の手揉み製茶による茶作りを改善し、生産コストを低く抑えて国益を増大させようと、製茶機械を発明します。しかし、手揉み製法を誇りとする狭山茶産地では、製茶機械の導入はなかなか進みませんでした。静岡茶に遅れること十数年、狭山茶産地では大正時代後期に機械製茶が始まり、昭和3年に埼玉県立茶業研究所が設置されて、近代茶業へと転換していきました。

その後、アジア太平洋戦争により一時荒廃していた狭山茶業も、戦後間もなく復興を遂げ、昭和30年から40年代以降には、従来の畦畔茶(けいはんちゃ/畑などのまわりに植えられる茶の垣根)から、本茶園へと茶園の姿も大きく変わって来ました。

現在では埼玉県で生産される狭山茶のうち入間市がその半量以上を占めています。

狭山会社の茶袋ラベル

狭山会社の茶袋ラベル

狭山会社がアメリカで販売した茶のラベル。

入間市博物館蔵

畦畔茶(けいはんちゃ)

畦畔茶(けいはんちゃ)

武蔵野台地の表土(赤土)は軽く、強風によって容易に吹き飛ばされてしまいます。畑や家のまわりにチャの木を植えることで、風害や、土の流出を防ぐと同時に、春先の貴重な現金収入源となりました。

本茶園(ほんちゃえん)

本茶園(ほんちゃえん)

武蔵野台地に広がる「本茶園」。これだけの面積の茶園が広がる産地としては国内の北限。機械での摘み取りに対応して、かまぼこ形に丸く刈りそろえられた畝(うね)が整然と並んでいます。

入間市が主産地なのに、どうして「狭山茶」なの?

「狭山茶」の「狭山」は、入間市の南部に位置する「狭山丘陵」に由来します。狭山丘陵は、埼玉県と東京都にまたがった丘陵で、地図で見ると、広大な武蔵野台地の海原に、緑の小舟を浮かべたような孤立丘陵です。「狭山」とは、この広い台地の中に孤立する「狭い山」を意味する古くからの地名です。

江戸時代の終わりごろ、狭山丘陵北麓の二本木村西久保(現・入間市宮寺)の吉川温恭(よしかわよしずみ)と、坊村(現・東京都瑞穂町)の村野盛政(むらのもりまさ)が、煎茶作りを開始し、ここで作られる煎茶が初めて「狭山茶」と名付けられました。

その後、幕末から明治にかけて、緑茶がアメリカに輸出されるようになると、茶作りが狭山丘陵の麓から、周辺の台地一帯へと広がっていきました。そのころは、集散地(流通拠点)である八王子の地名を冠して「八王子茶」や「八茶」などと呼ばれたりしていました。

明治時代初め、黒須村(現・入間市)に茶の直輸出会社「狭山会社」が設立されると、周辺地域一帯で作られる茶の総称を、最初に煎茶作りが始まった場所での呼び名である「狭山茶」に統一し、広域ブランド名としました。

現在、埼玉県および隣接する東京都でつくられるお茶を総称して「狭山茶」と呼びます。

ちなみに、入間市のとなり(北東)には「狭山市」があります。狭山市は、狭山丘陵から離れていますが、昭和29年に市制を施行する際に、「狭山茶」の茶名から「狭山市」と名付けられました。一方、入間市の「入間」は、現在の狭山市を含む埼玉県南部の広い範囲を指す郡名で、昭和41年に市ができた時から「入間市」の名前を使うようになりました。古くからの地名と、現在の市名とが入れ替わった形になっているため、茶名と市名の逆転が起きてしまったというわけです。茶名だけでなく、学校名や施設名など、あらゆる名称に市名との逆転現象が見られ、地元では「入間の狭山、狭山の入間」とも言われています。

 狭山茶の「明恵」伝説ってなに?

「今から800年ほど前、明恵上人(みょうえしょうにん)が河越の野に茶の種を植え、全国銘園五場の一つとした」という話が、これまで多くの書籍等で取り上げられ、広く紹介されてきました。この話は、江戸時代後期の天保3年(1832)に建てられた「重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)」(入間市宮寺)に刻まれており(注1)、当館でも20年ほど前まではこの話を狭山茶の歴史として取り上げていました。しかし、最近20年ほどの詳しい調査研究の結果、この話は史実ではなく、江戸時代に広まった伝説であることがわかりました。

明恵上人とは、京都栂尾高山寺(とがのおこうさんじ)の僧で、生涯で一度も関東へ来たことがありません(晩年に、関東行きを願ったが、叶わなかったといいます)。また、河越に明恵ゆかりの寺院もありませんでした。では、なぜそのような伝説が生まれたのでしょう?

鎌倉~室町時代、高山寺の栂尾茶(とがのおちゃ)は日本のトップブランドであり、江戸時代以降は宇治茶がトップブランドでした。栂尾茶と宇治茶は、いずれも明恵が茶祖とされていることから、『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』などに記された全国各地の茶産地の由来も、すべて明恵に集約して仮託する話が、江戸時代中期ころの書物(注2)から見られるようになります。『重闢茶場碑』に刻まれた狭山茶の由来も、こうした江戸時代の書物を根拠に誕生した伝説と考えられます。

江戸時代後期、狭山茶産地では「宇治製法」を導入し、さらに宇治から大量の茶種を購入して茶園を拡大していきます。まさに、製法も遺伝子も、トップブランドである宇治茶の完全コピーを目指していました。そのような状況で、狭山茶の祖を宇治茶と同じ明恵に託すという伝説が盛んに喧伝され、地域の人々に信じられていったと考えられます。当時は新興産地であった狭山茶のブランド価値を高めようと努力する一環として、明恵伝説は大きな役割を果たしました。

狭山茶の歴史について最新の研究に基づく学説は、入間市博物館発行の『史料で読み解く狭山茶の歴史』(2019年)をご覧ください。(下記の関連リンク)

(注1)同様の話は、安政4年(1857)に作成された「狭山茶場碑」(入間市中神)の文にも記されています。
(注2)享保6年(1721)に刊行された『除睡鈔(じょすいしょう)』などが代表的です。