繁田家は江戸時代に代々名主役を務めた豪農商です。江戸時代後半には味噌醤油醸造業も始めました。本家には長屋門と呼ばれる立派な江戸時代の門があります。門は、繁田本家の母屋と隣の分家「繁田醤油(屋号・西山荘)」が使っています。
繁田家は、慶応2年(1866)6月13日~19日の武州世直し一揆で打ちこわしの被害に遭っています。門前には当時の傷が残っています。建物や道具は壊されたものの、家族など人への被害は全くなかったといいます。
繁田本家では、武平という名が代々引き継がれていました。最も有名なのが号を翠軒という13代繁田武平翠軒と、その父の12代繁田武平(号は満義)です。満義は息子の翠軒、発智庄平とともに黒須銀行の創立、発展に努めました。黒須銀行についてはこちら。
繁田武平満義
先代から始まった狭山茶業を受け継ぎ、発展させました。県会議員も1期務めています。
安政5年(1858)横浜が諸外国に開港されると、日本茶は生糸に次ぐ主要輸出品となりました。明治8年(1875)には、満義は県域の製茶業者とともに、狭山茶の輸出をする狭山製茶会社(狭山会社)を設立し、社長に就任しました。この会社は、繁田家を本店としていました。
狭山会社
狭山会社設立の目的は外貨獲得、粗悪品製造の防止、市茶業者の保護育成でした。外国商館を通すことなく日本人だけで直接輸出する日本初の会社です。この会社の設立を契機にお茶の名称が「狭山茶」に統一されました。狭山会社の経営はわずか8年余りで終わりましたが、狭山茶の品質を国内外に周知させる取り組みはその後に引き継がれ、明治26年(1893)世界コロンビア博覧会では宇治茶に続いて2番目の入賞数を誇りました。
繁田武平翠軒
繁田武平翠軒は、繁田武平満義の次男として生まれ、兄が発智家の継子となったため繁田家を継いで実業家、政治家、教育者として活躍しました。明治26年(1893)27歳の時に町会議員に当選してから大正14年(1925)に町長を辞任するまで31年間にわたり豊岡町政に多大な足跡を残しました。町長としては、納税組合を設立して町の財政を確立したり、豊岡農学校(現豊岡高校)を設立したり、高倉坂を改修したりしました。その成果として、豊岡町は内務省から全国で3つしかなかった全国優良町村に推奨され、町の統一・施設・事業などが自治体の模範として紹介されました。
また、兄の発智庄平と日本弘道会黒須支会を設立し、生涯、道徳運動を展開しました。
翠軒の最も大きな功績は、豊岡公会堂の建設でした。豊岡公会堂についてはこちら。
翠軒は自伝の中で「道徳的実業家」と自称しています。講演をする際にも、自分の本文が茶の製造・販売を行う商売人であると言っています。しかし、彼は商売人としてだけでなく様々な功績を残した人物でした。まさしく近代の入間を形づくった最大の功労者であると讃えられています。
発智庄平
満義の長男で翠軒の兄です。繁田家から霞ヶ関村(川越市)の発智家に養子に行きました。発智家もまた代々名主を勤めてきた豪農です。黒須高等小学校の校長、大正3年から15年まで霞ヶ関村村長を務め、県下の孤児支援にも力を尽くしました。黒須銀行では頭取を務めました。
また、「ゴルフは武士道に代わるもの」だとして、2020年東京オリンピックのゴルフ会場となる「霞ヶ関カントリークラブ」の創設に大きな役割を果たしたことでも有名です。昭和4年、この地にぜひゴルフ場を建設したいという願いと、発智家所有の広大な土地(18万坪)がゴルフ場に最適であると判断した藤田欽哉、赤星四郎氏らゴルフ界草分けの諸氏の尽力が実を結び開場したといいます。
参考文献
- 埼玉人物事典