入間川
入間川は、大持山(1294m)の南東斜面を源とし、飯能・青梅の山や丘陵から流れ出す水を集め川越市で荒川と合流する川です。入間市と狭山市の境目で霞川が合流します。
入間市の辺りは、入間川の中流域にあたり、橋を架けられない時代に川を渡るにはちょうど良い川幅の位置でした。上州(今の群馬県)から鎌倉へ向かう通り道にもなり、南北朝時代には、上州の新田氏勢力を牽制するために足利基氏が9年余りにわたって布陣して防衛線を固めた「入間川御陣」がありました。入間川御陣があった場所は現在の狭山市です。
根岸の渡し
入間市の黒須から狭山市の根岸へ通う入間川の渡しは古来より交通の要所でした。
江戸時代には文化9年(1816)に根岸村(現狭山市)組頭又四郎が、日光脇往還を通る入間川(現在の豊水橋付近)を渡る人のため渇水の季節に橋を渡し、増水のときに船渡しを行い、諸経費を又四郎が負担し黒須村に毎年一貫文を支払うなどの議定を黒須村と結んで根岸の渡しが行われました。根岸村・黒須村間で嘉永、安政、慶応にも渡しに関わる議定が結ばれました。収益が増すにつれ対立が深まりたびたび訴訟が繰り返されました。慶応4年(1868)には争いに広瀬村と笹井村も加わり、4ヶ村で船を出していました。明治初期まで行われました。入間川にある5カ所の渡しのうち、一番賑わっていたといいます。日光脇往還の往来の多さを示しています。
笹井の渡し
秩父甲州往還にある黒須村と笹井村(現狭山市)の間の、現在の入間川にある笹井ダム付近で行われた渡しです。渡しは、平常時に歩行渡し、冬季には仮橋を架設しました。明治初期から大正初期頃までは船渡しが行われていました。笹井村(大正期の名称)の屋号「渡船場」の家では小屋掛けをして渡賃を徴収していました。
豊水橋
日光脇往還で入間川における交通路の根岸の渡し場に、大正9年(1920)に初めて架けられた橋が豊水橋で、全長約300mの木橋でした。名前は豊岡町と水富村(現狭山市)を結ぶ橋に由来しています。この橋によって江戸時代から続いた根岸の渡しは役目を終えました。石川幾太郎が架橋に際し585円を寄付しており、埼玉県知事より木杯と褒状を授与されています。
その後、鉄筋コンクリート製の新たな橋を建設する時には昭和4年(1929)の開通直前に川の出水により一つの橋脚が沈下し、完成が昭和5年となる出来事がありました。昭和38年(1963)には拡張工事が行われました。現在の豊水橋は、平成15年(2003)に新たに竣工したものです。また、国道299号バイパスが入間川を渡る橋は新豊水橋と呼ばれます。
霞川
加治丘陵と金子の茶畑の間を流れる霞川。入間市内では一番長く、金子の県道青梅入間線沿いから入間市駅の裏を通り、春日町の少し先の狭山市鵜ノ木で入間川と合流します。川幅も4~10数mほどで、川沿いが道路になっている所も多くあります。上流から合流するまで、川の流れが大きくなっていく様子も見ることができます。西洋館付近では、合流間近で川幅も広くなっています。
石川家と霞川
霞川は、大正時代頃、現在よりの位置よりも、西洋館や豊岡教会のすぐ近くを流れていました。
小説「大地の園」には、霞川の土手で寝転んだり読書を楽しむ石川家の子どもたちの姿が描かれています。きっといい遊び場だったのでしょう。
西洋館を訪れた佐佐木信綱が詠んだ霞川
「霞川 なかれを清み こころきよき ひとむれてあそふ むつましき哉」。佐佐木信綱が、石川組製糸の創業者である石川幾太郎に賓客として西洋館(石川組製糸西洋館)に招待された時に、霞川の風景を詠んだ歌です。
幾太郎が豊岡町役場と豊岡公会堂の間に歌碑を建て、表面には歌とともに「昭和五年三月 文學博士佐佐木信綱」、裏面には「この地を寄する石川幾太郎これを建つ 入間川町 石工 淺見政國刻」と刻まれています。役場の移転に伴い、入間市市民会館敷地内に移設されています。
佐佐木信綱(1872―1963)は三重県出身、国学者佐々木弘綱の長男で国文学と歌学を研究し、歌人としても知られています。第1回文化勲章(昭和12年)を受賞しました。