平成14年(2002)7月5日、石川家の一族から100人以上の協力を得て家系図や寄稿、聞き取りしたものや写真などを集めた『石川家の人々』が刊行されました。
石川幾太郎
幾太郎は、黒須村の旧家石川金右衛門とだいの長男として生まれました。
西南戦争が終わり、開国進取の時勢の中「実業界へ飛躍しよう」という志を持った幾太郎は、戸主となった明治12年(1879)、24歳で茶業(仲買)を始めました。
当時狭山茶は輸出品として勢いがあり、黒須には「狭山会社」も設立されていました。
しかし、この会社の倒産や洋銀相場の影響を受け、幾太郎の経営は失敗に到ります。失火という災難にも見舞われ、家族は困窮しました。丈夫な体と不屈の意志、勤倹、家族の和合を力とし、将来を模索していた明治23年、弟や父の影響で、母と共にキリスト教の洗礼を受けました。
貧しくも働き者の両親のもとで育ち、畑仕事の傍ら新河岸(川越)へ荷物を運ぶ馬曳きや茶作り、わらじ作り等をして家計を助け、弟妹の面倒をみました。そんな中でも教養を身につけようと、黒須村の名望家繁田武平満義の元に通い、教えを受けました。多感な少年期は、打ち壊しや飯能戦争に接する動乱の幕末から躍動の明治維新へと大きく変わる時代でした。
若き日のエピソード
- 12,3歳の頃、友達と賭けをして自分の小遣いをかけ、勝ったつもりだったが、2分負けてしまった。かなりくやしかったらしく、「賭けというのは非常にくだらないものだ」といって、以後賭け事は一切しなかった。
- 「千字文」という字引が欲しくて、夜なべ仕事に馬のわらじその他を100足も作り、それを売ったお金をためて、ようやく30銭の字引を手に入れ、手習いをし、勉強をした。
- 馬曳きをしていた頃、背が低いので人から手伝ってもらうことがよくあったが、してもらってタダでは申し訳ないと思い、馬のわらじを作ってはお礼にしていた。
石川組製糸の創業者としての石川幾太郎は石川組製糸とはにあります。
武蔵野鉄道と石川家の人々
幾太郎は、大正9年(1910)より武蔵野鉄道の取締役、同10年の下半期から第3代社長に就任しました。武蔵野鉄道は、現在の西武鉄道池袋線の前身です。大正4年に池袋~飯能間が蒸気鉄道として開通しました。大正5年に発行された『武蔵野鉄道唱歌』には、「豊岡駅に近づけば 製糸工場右左」という一節があり、当時の沿線案内図にも石川組の製糸工場が描かれています。幾太郎が社長在任中であった大正14年には池袋~飯能間の全線電化が完了し、幾太郎は豊岡商工会長の立場で豊岡町駅での開通式を挙行しました。石川家の人々も株主として鉄道の経営を支えました。
石川金右衛門
幾太郎の父です。黒須村で生まれ、23歳で石川家に婿入りをし、農業を本業としながら各種の副業を営み、生計をたてました。妻だいとの間に六男六女を恵まれました。息子の和助のすすめで60歳の高齢でキリスト教に入信し、一族が信者となるきっかけとなりました。大正10年(1921)、91歳でその生涯を閉じました。
石川龍蔵
幾太郎の弟で、製糸業の経営に全面的に協力し、石川組の第二工場(新家工場)を任されました。龍蔵の家は新しい家という意味で、「新家」という通称が付けられました。思慮細心、先見の明があり、しかも大胆な商才に長けた人であったといいます。持病があるにもかかわらず、働きに働き続け、大正14年(1925)に57歳で天に召されました。優れた軍師ともいうべき龍蔵が57歳という若さで急逝したことは、石川組にとって大きな打撃となりました。
武蔵豊岡教会の建築委員長の役も務め、力の限りを尽くして会堂の建築を完成したといいます。
石川民三
幾太郎の長男として生まれ、石川家第十代の当主となりました。幾太郎の後について広い工場内を見て回り、幾太郎が大声で従業員を叱咤激励した後で民三が間に入ってなだめる、という役回りであったと「石川家の人々」に書かれています。関東大震災後、損失を負った石川組の苦境を乗り切ろうと、非常な苦労を重ねましたが、会社は終末に向かってしまいます。傍目から見ても気の毒なほど苦慮しており、過労で倒れ、遂に58歳という若さでその生涯を閉じました。
豊岡町の収入役ともなり、町の運営に重要な役割を果たしました。税務調査委員や埼玉製茶業組合副組合長も歴任しました。
打木村治(1904-1990)
打木村治は、本名打木保といいます。大阪に生まれ、父の病気により、母の実家のある比企郡唐子村(現東松山市)に移ります。川越中学時代に文学に目ざめ、早稲田大学を出て、大蔵省で税務署勤務のおりに川端康成に出会い、才能を認められました。
小説『部落史』が芥川賞候補になります。昭和初期の不況を背景に資本主義下にあえぐ農村、都会の下層の人々を描き、農民文学作家の地位を築きました。小説『支流を集めて』には山国から集められ製糸工場(石川製糸が舞台)に働く女工たちを思いやり深く描いています。晩年に所沢から飯能に移り、「天の園」「大地の園」を執筆しました。「天の園」は芸術選奨文部大臣賞、サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。
石川信雄(1908-1964)
文学者で歌人。早稲田高等学院・早稲田大学に在学の頃、フランス前衛文学を学び短歌の革新に燃えて、技巧的な短歌集『シネマ』を刊行しました。出征・復員後に豊岡町をはじめ各地の人や風景と交流した頃をまとめた『太白光』を刊行しました。