石川和助
和助は埼玉師範学校を卒業後、東京の英語学校で教鞭を取っていたことから、次第にキリスト教の感化を受け、明治19年(1886)メソジスト派のキリスト教に入信しました。和助の改宗は家族から激しい反対を受けましたが、和助の熱心な布教により、明治21年に父・金右衛門が、明治23年には幾太郎が洗礼を受け、一族から次々にキリスト教に改宗するものが現れました。そのため石川家では、明治45年にキリスト教の教えに根ざした家憲・家訓が制定されるまでになりました。家憲・家訓は石川組製糸の基本精神とすべく、石川和助を中心として、幾太郎・幸助(白井)・龍蔵ら石川組の第一世代の協議を経て、明治45年に制定されました。「家憲」「家訓」ともにキリスト教の精神・聖書の教えを根本とすべしと説いている点が第一の特色です。
また、和助の布教活動は、徐々に実を結び、豊岡地区にもキリスト教信徒が増えてきたことから、明治28年に悲願であった教会堂が建てられました。この「天祐堂」と名付けられた建物は、酒蔵の部材で建てたもので、狭くなったため、大正になると新しい教会堂の建設が切望されました。ところが用地や資金の問題で計画は思うように進まず、石川組が教会用地1000坪を、石川家の同族会が1万円を寄付したことでようやく大正12年(1923)に現豊岡教会の教会堂が完成しました。
参考文献
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- 入間市博物館紀要第10号
- 入間市博物館紀要第11号
- 特別展図録 石川組製糸ものがたり