
西洋館を迎賓館として建てた製糸会社、「石川組製糸」。会社の名前としては、石川製糸所など複数の名前が資料によって確認されますが、このページでは「石川組製糸」または省略形として石川組と呼びます。豊岡町に興り、全国へと広がった石川組製糸には、実は今につながっている様々なできごとがあります。
石川組製糸は、石川幾太郎が明治26年(1893)に創始した製糸会社です。当初はわずか20釜の座繰製糸(手工業)でスタートしましたが、翌年にはいち早く蒸気力を利用した機械製糸に切り替え、日清・日露戦争の戦時景気に乗って瞬く間に経営規模を拡大しました。
最盛期には、現在の入間市内に3工場、狭山市・川越市・福島県・愛知県・三重県などに工場を持ち、生糸の出荷高で全国6位を記録するなど全国有数の製糸会社に成長しました。大正11年(1922)から翌12年前半に業績が最高潮に達したものと思われます。
しかし、大正12年9月1日の関東大震災によって、横浜港で船積みを待っていた大量の生糸が焼失してしまうという大きな被害を受けました。昭和恐慌、生糸に代わる化学繊維(レーヨン等)の出現などの影響により徐々に経営が悪化しました。さらに経営の羅針盤であった石川龍蔵や総帥幾太郎の死も経営悪化に追い打ちをかけ、昭和12年(1937)石川組は解散に至りました。
現在は、西洋館が関東大震災や東日本大震災にも揺らぐことなく、往時の盛況を伝えています。
創業者 石川幾太郎
石川幾太郎(1855年から1934年まで)は、黒須村(現在の入間市黒須)で石川金右衛門とだいの間に六男三女の長男として生まれました。
明治12年(1879)には代々続いた茶園を継いで製茶仲買商となりましたが、その後、製糸業に進出し、一代で石川組製糸を全国有数の会社に育てました。入間地方の経済の担い手として、一時は武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の社長にも就任しています。
また、幾太郎は、弟の和助が熱心なキリスト教信者であったことから、この勧めでキリスト教に入信しています。このことは石川家家憲や工場経営にも大きな影響を与えました。一般に製糸業では女工の過酷な労働が伝えられていますが、石川組製糸では女工の積極的な教育に取り組むなど、慈愛に満ちた雇用を行っていました。
日頃質素倹約を旨とした創業者幾太郎は、半纏に地下足袋姿で工員達と一緒に働いていたといいます。客が工員と間違えて「社長はどちらに…」と本人に尋ねたこともあったとか。
西の関脇 石川組
横浜への生糸入荷高を番付表にしています。東の横綱は東京の片倉製糸、西の横綱は信州の山十組、そして西の関脇には武州の石川組とあります。ということは出荷高6位、日本を代表する製糸会社であったことがわかります。
横浜へ出荷した生糸ラベル
石川組が使った商標です。春に生産した生糸の1等は「金星票」、2等は「桜票」、と品質によってラベルを貼り、出荷していました。大正14年頃の主な売先は米国絹業協会長ウィリアム・スキンナーでした。
参考文献
入間市博物館アリットや市役所でお買い求めいただけます。在庫切れの場合もありますのでお問合せ下さい。
- 入間市博物館紀要第9号
- 特別展図録 石川組製糸ものがたり