高度な労働集約型の産業であった製糸業においては、優れた視力と集中力を持ったベテランの女子工員(女工)を毎年確保することが必要でした。主に農村出身の石川組製糸女工たちの多くは寄宿舎で生活し、同一敷地内の工場で仕事をしました。
現在の「労働基準法」にあたる大正5年(1916)施行の工場法では一日12時間労働制でしたが、実家での農作業や機織り等の長時間労働と家事に追われる日々よりも、僅か月2日の公休日や短くとも同世代の娘たちと過ごせる自由時間のある工場勤めが良いと感じる女工たちも多かったようです。
石川家の家憲には、従業員を準家族として扱い、心身の修養練磨に必要な設備を置くことや、関係を親密にすることがうたわれており、女工さんの工場生活にも反映されていました。
石川組の女工さんについては、石川ハツ(幾太郎の孫)による夏休みの宿題レポート「労働婦人-製糸女工について-」と関口なつによる自叙伝「遥かなる石川製糸」によって見ることができます。当時の女工さんの様子を伝える貴重な史料です。
女工さんの仕事の様子
女工の仕事は、主に3つ、繰糸女工(糸取り)と再繰女工(揚げ返し)・仕上げ女工がありました。石川ハツによれば、この3者はそれぞれの仕事にプライドを持ち、対抗意識がありました。繰糸女工は人数が一番多く、賃金も高い仕事です。本店では、山梨・長野・新潟県出身者が多く、尋常小学校卒業程度でした。一方再繰や仕上げ女工は近在の農家の子女が多く、高等科卒業程度でした。通勤する再繰・仕上げ女工は、着物や髪型の流行において寄宿舎生活の繰糸女工をリードしていました。しかし、人数にかなわないのは言葉で、工場では甲州弁を話さなくては通用しませんでした。
石川組製糸の各工場では、男性従業員よりも圧倒的に多い数の女工さんが働いていました。女工の募集は事業経営にとって大変重要でした。この募集業務を担うのは、男性従業員の中でも、円満な家庭を営む信用のある者が任命され、管轄する警察署から鑑札が交付されました。
女工さんと教育
石川組を含めた大手の製糸工場には、「家庭学校」を開講しているものも多く、これには女工の勧誘・引き留め策としての効果もありました。講座には裁縫などのほか学科もあり、昭和3年当時の「夜学聴講願」を見ると、「法学大意」「商事要項」「製糸要項」「英語」の各科が置かれていたことがわかります。
毎週1回牧師が宗教講話の会を開いていました。しかし、50人程度しか集まらなかったといいます。経営者一族の信仰が女工たちに強制はされていなかったことが裏付けられます。ただ、女工たちは賛美歌を歌うことは好きでした。就業契約更新のために甲州の山村を訪れた際、夜の山里に流れる賛美歌を聞いたとの話もあります。
川越工場を例にすると、寄宿舎には、 20畳敷きの和室が1階と2階に各10室あり、並ぶ部屋を挟むように六尺幅(約180cm)の長い2本の廊下がありました。その一方は通り廊下、他方は髪結い廊下で敷物が敷かれ化粧や結髪に用いられていたようです。食堂のある建物は、本店工場においては2階建てで、2階の広間に何列も座卓が並び、女工たちはそこで食事をしていました。献立はご飯・汁物・漬物等が多かったが、昼食にはカレー・シチューやうどん、塩鮭などが出る事もあったといいます。
娯楽
定休日には時々映画や演芸が催されましたが、一番の楽しみは盆の休みとクリスマスでした。家に帰れない人達は、甲斐、信州、越後、武州の盆踊りを、大きな輪になって踊りあかしました。クリスマスは、工場の閉業式と一緒に行い、翌日の帰郷を前に、数々の余興で楽しみました。花見や運動会もありました。
地元では、大勢の女工達が祭を見に来るので若い男衆がはりきったとか、工場の休日には、化粧品を買いに来る女工達で賑わったという話もあります。
また、読書会や文芸活動をする工場もありました。
「おかせぎなさい」
本店工場内で誰もが挨拶代わりに使った言葉です。「おかせぎなさいまし」を縮めたもので、昔は普通に使われた方言です。働く人同士が、「お互いきつい仕事だけどがんばりましょう」という意味で使いました。石川ハツは論文の中で、この習慣を面白いと思いつつ「この言葉を聞くと、お互いに気持ちが融和していて、ともに働こうとする気分が現れていて、工場内でなければ味わえない、よい気持ちにさせられます。」と書いています。
参考文献
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- 入間市博物館紀要第10号
- 特別展図録 石川組製糸ものがたり