黒須銀行は明治33年(1900)2月、豊岡町大字黒須(現在の宮前町)に資本金20万円で設立された銀行です。その資金は、道徳をもって勤倹貯蓄し恒産の基を作ろうという「黒須相助組合」の積立金が元になっています。唱道したのは黒須の繁田満義で、役員には教育者の発智庄平、豊岡町長の繁田武平(翠軒)や地域の実業家、顧問には渋沢栄一ら日本経済界の重鎮が就任しました。
「堅実主義と華客本位」を本旨とし、地元の基幹産業である製糸や機業などに融資し、地域産業の振興に貢献しました。入間郡内に3支店と1出張所を置き、一時は県下第3位の銀行に成長しましたが、大正11年に武州銀行と合併しました。

- 全面ガラス窓
※現在も当時のガラスが残る - 黒漆喰仕上げの重厚な外観
※現在は白い塗装が施されている - 鉄棒の格子、銅板貼りの用心戸
※戦時中の金属供出により現在は失われている
この建物は明治42年(1909)5月に黒須銀行本店として建設された土蔵造り二階建で、寄棟造り瓦葺の建物です。建築史的には、明治期の地方銀行に多く見られた洋風土蔵造りであることや、現存する土蔵造り銀行建築が希少であることから、貴重な近代建築遺構とされています。
建物や黒須銀行についての詳細は入間市博物館紀要第9号に掲載されています。
その後の黒須銀行は、武州銀行の合併で昭和18年(1943)から埼玉銀行(現在の埼玉りそな銀行)豊岡支店として使用されました。
昭和40年3月27日からは武蔵町郷土民芸館として使われ、民具などを展示するため内部の改修がされました。武蔵町が入間市になってからも平成6年まで郷土民芸館として使われていましたが、資料館の役割は博物館アリットに移り、現在は歴史的建造物として保存が図られています。平成2年に市指定文化財(建造物)に指定されました。
中に入ると、銀行らしい立派なカウンターがあります。
当時の写真を拡大印刷し展示した様子です。当時の様子が伝わってきます。
明治の銀行建築
明治時代の銀行建築といえば、西洋式の煉瓦造りや石造りの本格的な洋風建築が思い起こされます。それは銀行制度が、明治維新政府が欧米から輸入した新しいものであり、その建築様式も欧米に倣ったことによるのです。明治26年「銀行条例」が施行され、産業の勃興とともに全国に銀行が急増しました。その数は明治後期にピークを迎えますが、多くは資本金10万円以下の小銀行でした。実はそれらの建物は土蔵造りが多かったと言われています。銀行は金銭を扱うことから、防犯・耐火的な作りが求められます。当時土蔵造りは、耐火建築として都市部の店舗に多く採用されていました。富の象徴であり、財産を守る建物として高い信頼を得てきた土蔵造りは、日本の銀行建築にふさわしいものだったといえます。
道徳銀行
黒須銀行は、「株主が道徳の会員であること」「資金が道徳の結晶であること」「資金を道徳的に運転すること」によって、世間から「道徳銀行」と呼ばれた希にみる会社でした。黒須銀行の設立に助言し、顧問にもなった渋沢栄一は、道徳経済合一説を唱えていましたので、このことをとても喜び、大正2年、創立15周年にあたりこの書を揮毫して贈りました。今は、黒須銀行をルーツの一つとする埼玉りそな銀行本店(さいたま市)の応接室に掲げられています。
黒須銀行の行章
「信義」の信。鬼瓦や軒瓦にもついています。瓦は地元産で良質な小谷田瓦です。
銀行で得意先に配っていたそろばんの裏面には「信用は資本なり」と刻まれていました。
担保の繭を保管していた「旧黒須銀行本店倉庫」
黒須銀行は、土地や家といった不動産だけでなく繭や生糸を担保にして融資をしていました。そのため、繭を保管する大きな倉庫がいくつも必要でした。銀行建物の裏に土蔵造り2階建ての第一号倉庫がありましたが、現在は取り壊され、基礎が残るのみです。倉庫解体の前に調査・図面化し、解体の様子とともに記録しました。調査記録結果は入間市博物館紀要第9号にまとめられています。
道徳銀行のきっかけはうちこわし
繁田武平満義は武州世直し一揆で打ちこわしの被害に遭い、先代から引き継いで採算がとれるようになってきた醤油蔵で諸味桶が壊されるなど、とても悔しい思いをしました。「日頃勤倹をあざけって遊んでいるのに、ひとたび凶作に遭えば他人が勤倹で作った財産を敵視して、こんな狼藉におよぶとは言語道断だ!」と思いました。
しかし、二宮尊徳(金次郎)のことを尊敬していた満義は「彼らに普段から勤倹が大事なことを納得させて、方法を設けて実行させたら、暴徒の仲間に陥らずに済んだはずだ。憐れむべくして、憎むべからずとは彼らのことだ」と思い直します。そして、少しずつでもお金を貯めるよう教育を始めます。
人々のお金を少しずつ集めて積み立て、商売で必要な時にお金を貸す、黒須相助組合という形で実行していきます。相助組合は、黒須銀行へと発展し、地域の産業を支えました。
満義は、「人生の事業多々ありといえども、一つとして信義道徳の力をしらずして成功の美果を収め得たるものはあらず。」「是信義道徳は、ただに人間社会特有の美徳たるのみならず、兼て事業発展の原動力なればなり。」という言葉を残しています。