日光脇往還は八王子から日光までを三泊四日で結ぶ道で、総距離は156kmです。江戸時代以前は軍用路として使われていたものを、江戸時代に八王子千人同心が日光勤番(東照宮の火の番)を勤める際の八王子-日光間の通行路として整備されました。
日光勤番は、当初は千住(日光道中)を通り、4泊5日の行程でしたが最短の日光脇往還を通ることで3泊4日の行程となりました。
大山詣り等へ行く人々の通行路ともなり、街道沿いの村々は往来や物資の流通により発展しました。市内では扇町屋と二本木が宿継場(しゅくつぎば・荷を運ぶ馬の中継所)として整備され、扇町屋は往路初日の昼食地、復路3日目の宿泊地となっており、三の日・八の日には市が立つほどの盛況を見せました。
村の各所には道先を案内する道標が建てられました。江戸時代の道標に目的地として書かれる場所には、幕府のあった『江戸』のほか、近隣の『青梅』『八王子』、入間市で町場として栄えた『扇町屋』『二本木』、そして多くの人がお参りのために目指した『大山』『御岳』があります。
八王子千人同心
徳川家康が天正10年(1582)に甲州・武州の武田の旧領を領有した際、その辺りの地理に詳しい武田の旧臣を雇って国境警備隊として250人を募り結成されたのに始まります。1590年に北条が滅亡すると徳川家康が関東に入国、すぐに氏照の旧城下である八王子に駐屯させて北条の反逆に備え500人に増強しました。関ヶ原の合戦前の慶長4年(1599)には倍の500人を軍備強化のために募り、1000人になりました。ここで名前の八王子千人同心が誕生し、千人町という町も整備されました。
関ヶ原や大阪冬・夏の陣で戦い、世の中が平和になってくると江戸城修理や将軍の警護などを行いました。慶安5年(1652)には日光東照宮の火の番役を命じられ、これが江戸時代を通じて主要な任務となります。日光脇往還を通っての日光勤番は217年間で1,030回程に渡って続けられました。
明治末期、扇町屋の通りが愛宕神社の例大祭「おとうろう祭り」で賑わう様子。通りの両側に花笠ちょうちんが立てられています。現在のおとうろう祭りでは花笠ちょうちんは立てられませんが、立てるための穴が歩道に残っています。
扇町屋の宿継場
扇町屋は江戸時代を通じて市場が開かれ、商業流通の中核地として発展してきました。三・八の六斎市(三と八の付く日に行う市)が催され、米や雑穀を商う穀市として名をはせました。江戸時代後期以降には織物や繭なども取引されていました。
徳川御三家の尾張藩の鷹狩り場として藩主が休泊する御殿もありましたが、将軍綱吉の生類憐みの令で一時中止となりました。
間口が狭く奥に長い土地の区割りにかつての様子がうかがえます。
上町・中町・下町
扇町屋村は上・中・下に分けられて、上宿・中宿・下宿と呼ばれ、現在の上町・中町・下町となっています。祭りではそれぞれ山車を出しお囃子を演奏します。また、それぞれに子育て地蔵があり、子ども向けに縁日を行っています。
日光脇往還と青梅道の三叉路に道標と地蔵菩薩、馬頭観音があります。地蔵堂の元禄五年(1692)銘の地蔵菩薩は、正面に6人の女性の名が、側面に男性19人の名があります。これらの人々が3年間の念仏の行を終えて、多くの人々とともに極楽往生を願って建立した由来が刻まれています。「右 おう免みち 左 八王じみち」と刻まれ道標も兼ねていました。文政3年(1820)銘の馬頭観音も道標を兼ねています。
扇町屋上町の道標(市指定史跡)
青梅から続いてきた青梅道が扇町屋上町で日光脇往還に合流します。この合流点に建てられた道標です。同所にある地蔵と馬頭観音も道標を兼ねたものになっていますが、これは安政3年(1856)にひときわ大きく建てられた道標です。「ふし山 高尾山」など山岳信仰の霊山が刻まれています。願主の江嶋屋半六は旅籠と料理屋を営んでいました。江戸時代の人々の山岳信仰や当時の交通、扇町屋宿継場の盛況も伝える貴重なものであるため、市指定史跡となっています。上町子育地蔵講で管理をしています。
下町の道祖神道標(市指定史跡)
道祖神は、村に入ってくる疫病神や悪霊が入ってくるのを村境で防ぐ神で、旅人の行路を守る神ともされ、願いを込めて村境や街道に建てられました。これは、扇町屋の下町のはずれで日光へ向かう道と川越へ向かう道に分かれる位置にあり、道標の役割を兼ねたものになっています。
豊岡温故公園の道標(市指定史跡)
江戸時代の中頃に建てられたものと考えられています。「甲州往還(秩父江戸道)」と「日光脇往還」の2つの大通りが交差する所にあった道標。もとは現在の河原町交差点付近にあったものを道路拡張などにより今は場所を移して温故公園に保存されています。河原町交差点の辺りは昭和初期まで広場となっていました。当時の人々の盛んな往来を思い起こさせてくれる道標です。