いるま歴史ガイド 旧石川組製糸西洋館と周辺の文化財

彰義隊遭難者しょうぎたいそうなんしゃの碑 付地蔵つけたりじぞう

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豊岡高校前
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彰義隊遭難者の碑

碑は県立豊岡高等学校の前にあり、幕末の慶応4年(1868)3月に当地で起こった彰義隊士の事件を記録したもので、大正10年(1921)に彰義隊隊長だった本多晋によって建てられました。隊士を供養するために村人が地蔵を建立し、現在は黒須の蓮花院境内に安置されています。

「彰義隊遭難者の碑 付 地蔵」は市指定文化財(史跡)になっています。

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現在は蓮花院境内にある地蔵

事の顛末は、『豊岡町史』大正14年刊、高麗大記筆「桜陰筆記」、『彰義隊戦史』をはじめ彰義隊頭取の本多晋の碑文、繁田誠一ら有志が記した遺骨発掘の経緯などによって知ることができます。町史によると、慶応4年3月29日に彰義隊の一派と称する13人が扇町屋村の藤間屋に投宿して、組合村の大惣代長谷部太七・増田勘平、名主栗原良平を呼びつけて千両の軍用金調達を厳命しました。これに対して、長谷部らは小組合の村名主を招集して対応を協議しました。その結果、服装や挙動などから判断して偽隊士であるとの結論に至りました。翌日、武器を手にした1,500人ほどの村人や大砲に見せかけた花火筒で示威をする者もいました。長谷部らが藤間屋に押し掛けて談判を行ったところ、隊士らの要求は取り下げ、武装解除の末に川越藩にいる知人の下へ護送してくれるよう哀願しました。このため、村人100人が護送していく上野原付近で、花火筒をもった者が花火に発火させて爆音を響かせると、それに驚いた隊士達が逃走を図ったため、刃傷沙汰となり村人に殺害されるという事態になったと伝えています。殺害された人数について町史では死者9人、捕縛者3人(後に切腹自害)、1人逃走。「桜陰筆記では「六人討ち取り、六人生け捕り」と記しています。

彰義隊遭難者の碑 付地蔵

所在地
入間市豊岡1-15-1先(県立豊岡高等学校正門横)
アクセス
入間市駅から徒歩7分
西武バス「豊岡高校前」バス停からすぐ
見学
碑は道路脇にあるため、いつでも見られます
このページに関するお問い合せ
入間市博物館
04-2934-7711

案内図

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