當摩本店は、初代當摩森太郎氏によって明治時代初期に建てられたと伝わる狭山茶業の問屋と小売りの店舗です。木造2階建てで1階が店舗になっており、棟続きに合場(茶のブレンド作業場)が隣接します。間口が狭く、奥行きが深いのは商家特有の造りです。特に天井や敷居が低くできているのは、「頭を低くして客を迎える」という客に対するへりくだりの気持ちを表しているからだといいます。
狭山茶は、自家の茶畑で栽培した茶葉を、自家工場で煎茶に製造し、家の小売店で販売まで行う「自園・自製・自販」が特徴的なスタイルです。當摩本店は商家のため栽培・製造は行わず、茶農家から製造まで行った茶葉を仕入れ、代々伝わる独自のレシピでブレンドし、當摩本店ならではの味と風味を持った狭山茶商品として販売しています。
明治時代の店舗で現在も営業しています。店舗に入ると、一段高くなった畳敷きの見世があり、客は腰かけておしゃべりしながら商品を選ぶ、「座売り」という昔ながらの販売スタイルが残っています。
炭と茶釜で湯を沸かし、お客さんへお茶を淹れていました。店内には商品のほか、昔使っていた狭山茶の価格表など、いろいろな物が飾られています。
初代の頃に海外へ狭山茶を輸出するのに使っていたと思われる、蘭字ラベル「SMILE」が店内に飾られています。この頃は、作れば作るだけ売れたといいます。
森太郎氏の墓碑銘によれば、明治初期に横浜のスミス・ベーカー商会に大量の製茶を売り込んでいた東京日本橋の丸川商店と契約を結び、個人で狭山茶を出荷していました。製茶は新河岸川を利用して送られたといわれています。明治21年(1888)の當摩家資料では製茶卸商と記載されています。この蘭字は、丸川商店との取引に関係があると思われます。蘭字ラベルの顔は丸川商店の丸川さんをモデルにしているという話が伝えられています。
正面の大きな時計は、港があった横浜で買ってきたものだといい、おそらく新しく作ったお店に立派な時計を掛けようと探してきたものと思われます。時計の針は、今は動いていませんが、先代がぜんまいを巻いたときは動いていたそうです。
狭山茶の輸出が盛んだった時代を感じられるお店です。