いるま歴史ガイド 旧石川組製糸西洋館と周辺の文化財

豊岡公会堂とよおかこうかいどう

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豊岡公会堂は、大正から昭和にかけて豊岡大学という今でいうところの公開講座の会場となった建物です。「豊岡大学」とは、公民教育・社会教育の機会となり地方青年の教育と知識の向上を目指して開催したものです。

豊岡町長である繁田武平翠軒はんだぶへいすいけん(1867―1940)は、公民教育が欠かざるもので、町民全体が一定の場所に会合する機会と道場を持たなければ自治の進行も発達も期待できないと痛感し、その施設としての公会堂の必要性を強く感じていました。公会堂建設計画は大正元年(1912)に発表されましたが、1千人収容、建設費約2万円という壮大な計画であったため、町議会では机上の空論と反対されました。

このような中、翠軒は奔走し、渋沢栄一より賛同を受け千円の寄附を受けることができました。その後、豊岡出身の実業家栗原幸蔵など財界からの寄付も得て改めて町議会にはかり、賛同を得ました。

大正12年(1923)に豊岡公会堂が竣工し、翠軒はここで念願の豊岡大学(日本の生涯学習の先駆け)を大正14年(1924)10月に開設しました。第1回豊岡大学には犬養毅らを講師として招き、192人の青年達が聴講しました。

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豊岡大学は昭和14年11月まで合計25回の講座が開催されました。原則として春と秋の2回行われ、1回につき3人程度の講師を招いて開催されました。講師には代議士の尾崎行雄や農学・法学博士の新渡戸稲造、自由学園長の羽仁もとこなどを招きました。講義の内容は道徳教育・経済・文学・実業などで、当時の時代的な関心事項を中心に取り上げられていました。

特筆すべきは、第8回目から女性も参加できるようになり、講師にも毎回のように女性が招かれていること、また年齢や学歴を問わず、地域も豊岡町に限定せず参加できたことです。知識を求める一般の青年たちが近隣からも多く聴講しました。

翠軒がもつ地域青年の公民教育にかける熱意と努力に支えられ、豊岡大学は、入間の地で当時の日本を代表する人物の話を直接聞ける機会を作り、生涯学習の先駆けとなりました。

その後、公会堂は役場の事務室や議会議事堂、商工会や結婚披露宴会場などに使用されましたが、公民館や市民会館が建設され、昭和49年にその役割を終えました。当時の鬼瓦などが博物館アリットに保存されています。

豊岡公会堂跡

所在地
入間市豊岡1-8-32
アクセス
入間市駅から徒歩4分
見学
跡地は現在UR豊岡市街地住宅が建っています
資料・文献紹介
入間を創った人たち~あの日、あの時、あの時代~
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04-2934-7711

案内図

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